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2007年1月28日  なぜ苦難があるのでしょうか  姫井師      2テサロニケ1章5〜7節

キリスト教は恵みや祝福を与えると言うのに、なぜ苦難や迫害があるのだろうか。長崎、熊本には多くの
殉教者の血が流されている。なぜ苦難があるのでろうか。
1、神の国にふさわしい者とするため(5)
 罪や穢れをもったまま神の国にはは入れない。主の十字架の恵みによって罪赦される。しかし、信仰をいただいた後
 霊的成長が必要。スポーツの選手がつらい練習を重ねるように、陶器が熱い炉の中を通されるように、試練、艱難が
 霊性を磨く。ヤコブ1:12、ヘブル12:11、使徒14:22
 簡単に躓いたの、ついていけないなど甘えたことばかり言うクリスチャンがいるが、成長が必要。苦難で作り出される
 信仰が求められる。
2、神の正しい裁きをしめすため(5)
 神は愛なるお方、赦しの主、救い主。しかし悔い改めない者には、義と聖であられるお方。裁きはある。
 ヨハネ3:17には裁くためではなく、救うために来られてとあるが、ヨハネ9:39には裁きを行なうために来た、と
 記されている。主の再臨の時には明確にこのことがなされる(7)
3、だれに苦しみは及ぶのか(6)
 試練を通して洗練されえた者には平安が、いのちの冠が約されている。ローマ5:1〜5 
 きちんと歩んでいるクリスチャンにも苦難はある。でも、恵みがともなう。
 しかし苦しめる者には苦しみが及ぶ。裁きがある。

 試練に耐え抜かせてくださる主の存在をしっかり覚えておこう。ヘブル2:18
 終わりまで、信仰の創始者であり完成者であるお方から目を離さないようにしよう。
 主キリストの恵みは十分である。